哲学の現実生活に対する意義はどこにあるのか

行為には目的がなければならぬと考えられている。行為は意志に基いて起り、意志は目的をもっている。そして一般に知識の目的が真理であるように、道徳的行為の目的は善と呼ばれるのである。そこで善とは何かということが道徳の根本問題になってくる。

行為の目的は快楽であるとするのは快楽説である。それとつながって、行為の目的は幸福であるとする幸福説がある。幸福は何等かの快楽を意味している。ところで快楽は主観的なものであり、各個人によって快楽とするものは異る故に、快楽を目的とする場合、道徳は客観性のないものになるであろう。そこに何等か客観的な標準を求めようとすれば、快楽というものを量化して考えねばならなくなる。もし快楽に肉体的快楽と精神的快楽というような性質的差別を認め、我々の求むべきものは肉体的快楽でなくて精神的快楽であるというように主張するとすれば、それはすでに道徳の基準を快楽以外のものから取ってくることになる。快楽を無差別にただ量的に考えるのでなければ快楽説は純粋でない。しかるに心理現象は本来すべて性質的なものであって、量的に考えることを許さないのである。

功利主義者ミルの如きも、幸福な豚になるよりも不幸なソクラテスになることを選ぶといっている。しかしもしかように考えるとすれば、それは快楽説の自殺でなければならぬ。次に我々は快楽を求めて快楽を得るのでなく、むしろ一時の快楽を否定することによって、真の快楽に達するというのが普通である。しかもこのように考えることも純粋な快楽説にとっては不可能でなければならぬ。なぜなら快楽説は元来あらゆる超越的なものを認めない内在論であるから、従って快楽説にとっては刹那主義が当然の帰結である。一時の快楽を否定して後の一層永続的な快楽を求めるということは、すでに行為に何等かの超越的な目的を認めることであり、少くとも快楽に性質的な差別を認めることである。更に我々の行為が身体的なものである限り、それが快楽を離れないことは当然であると考えられるけれども、身体というものも物体とは異り、どこまでも主体的なものである。

我々の身体もまた超越的意味をもっている。人間が超越的であるのは単にいわゆる精神においてでなく、却ってその全体の存在においてである。人間の感性はどこまでも人間的であって、単に動物的であるのではない。即ちそれはデモーニッシュな性質をもっている。かようにして我々はつねに快楽を求めて行為するというのでなく、むしろしばしば悲劇的なもの、快楽や幸福を否定するものを求めてさえ行為する。この点において快楽説は、抽象的なオプティミズム(楽天説)に立っている。また更に快楽は多くの場合我々自身に依存するのでなく、我々の外部にあるものに依存している。それは自己の外部にある物に依存し、或いは他の人間の存在に依存している。従って快楽を目的とする行為は自律的でなくて他律的でなければならぬ。かような行為は自由であることができぬ。自律的でないところに自由はないからである。もと内在論の上に立つ快楽説においては自由は認められない。自由の根拠は人間存在の超越性である。

快楽は生命に対する功利的価値を意味している。そこで快楽説は功利主義的であるのがつねであり、功利主義はまた快楽説的であるのがつねである。我々の生活は環境における生活であるとすれば、我々の行為が何等か功利性を目差しているということは疑われず、その限り功利主義は理由をもっている。しかるに我々にとって環境であるのは何よりも社会である。我々は本質的に社会的存在であるとすれば、我々はもと唯ひとり幸福になることができぬ。社会のうちに不幸な人間が存在する場合、我々は真に幸福になることができないであろう。従って快楽とか幸福とかというものも社会的に考えられねばならぬであろう。功利主義者ベンサムは最大多数の最大幸福ということをもって道徳の原理としている。快楽説は個人的快楽説から社会的快楽説になった。ところで先ず最大幸福という観念は、幸福を単に量的に見るものである。それはすべての快楽を量的に見る機械的な合理主義に立っている。次に最大多数という観念は、真に社会的な見方に立つものでなく、社会を個人の和と見る個人主義的な見方を基礎としている。すべての個人がめいめい自由に自己の幸福と考えるものを飽くまでも追求するとき、そこに自然に社会全体の幸福が結果すると考えるのがベンサムの社会的快楽説である。従ってその根柢には予定調和の形而上学のオプティミズムが横たわっている。

ところでカントは、快楽とか幸福とかを道徳の原理とすることは、道徳の原理を内容に求めるものとして排斥した。道徳は普遍妥当的なものでなければならぬ。しかるに意志の内容は普遍的なものであり得ず、従ってそれを原理とするとき、道徳の普遍妥当性は基礎付けられない。快楽説や功利主義などは相対主義に陥らねばならぬ。そこで道徳の普遍妥当性は内容にでなく形式に求められねばならぬとカントは主張した。知識の場合、その普遍妥当性の根拠が思惟の形式に求められたように、道徳の場合にも、その普遍妥当性の根拠が意志の形式に求められたのである。道徳の形式は意志の形式として主観に属するのであるから、形式主義は主観主義である。かような主観主義は、道徳においては実際にどうあるかということが問題でなく、何を為すべきかということが問題であり、道徳は事実にでなく当為に関わると考えられる故に、この場合、知識の場合におけるよりも一層理由を有するように思われる。道徳は命令の性質を具えている、その命令は絶対的でなければならぬ。しかるに内容を顧慮すれば、しかじかであるならばしかじかのことをせよというように、命令は仮言的になり、断言的であることができない。

そこで道徳の命令が絶対的即ち断言的であるためには、形式主義の立場に立たねばならぬ。カントはかような断言的命令として、「汝の意志の格率がいかなる時にも同時に普遍的な立法の原理として妥当し得るように行為せよ」ということを掲げた。カントの形式主義は、快楽や幸福が行為の動機となることを一切斥けて、道徳的行為は純粋に義務のために義務を行うものでなければならぬと考えるのである。そこでカントの倫理説は厳粛主義と称せられている。これによってカントは道徳における心情の純粋性を要求する。「この世においても、またこの世のほかにおいても、無制約的に善と呼ばるべきは、善なる意志のほかにはあり得ない」、と彼はいっている。彼の倫理は「心情の倫理」であるといわれるであろう。

心情の倫理が絶対的であるのは、それが超個人的な普遍的な理性を基礎とすることに依るのである。カントに従うと、実践理性は自律的であり、自己が自己の立法者である。我々の行為は理性の普遍的法則に対する尊敬の感情から出なければならぬ。しかるに、もし道徳の基礎がかように抽象的一般的なものであるとすれば、我々が道徳法に合致すればするだけ、我々は個性であることをやめ、従って人格でもないということになるであろう。人格はどこまでも個性的なものである。それが超個人的意味をもっているということは、理性という抽象的一般的な本質に依るのでなく、却って人間がその全体の存在において超越的であるためである。善なる意志に基いてなされる行為が内容的な動機を含まず、無動機であるかのようであるのも、人間存在の超越性に依ってである。

ただ主観的な動機からでなく、客観的な命令に従って行為することが道徳的である。己れをなくするとき、表現的なものはそのものとして顕わになり、我々に命令的に働きかけてくる。表現的なものが命令的なものであるのは、それが超越的意味をもっているからである。かようにして外からの命令に従って我々が働くということは、単なる外的強制に従うということでなく、却って真に内から働くということである。真に自己自身に内在的なものは超越的なものによって媒介されたものでなければならぬ。主観的な自己を殺してこのものに生きることによって、我々は真の自己となるのである。

然るに行為は単に意識の内部における現象でなく、行為するとは却って意識から脱け出すことである。行為するには身体が必要である。我々の自己は身体的な自己である。従って快楽とか幸福とかという感性的なものも、行為にとって無視することのできぬ要素である。パスカルのいった如く、すべての人間は幸福を求めており、それには例外がない。幸福を軽んずる者も、それ自身の仕方で幸福を求めているといえるであろう。内容をもたぬ単に形式的な意志というものはあり得ない。我々の行為はつねに環境における行為であり、環境に適応してゆくことによって我々の生命は維持されるのである。それ故にすべての行為は生命価値をもったものであり、功利的なものである。スピノザのいった如く、すべての個体はその存在において能う限り持続することに努めている。我々の行為は一定の環境における行為として、単に形式的なものであることができず、内容的なものでなければならぬ。我々の意志は抽象的一般的なものでなく、現実的に歴史的に限定されたものでなければならぬ。

ところで行為は意識の外部に出るものである以上、それはつねに社会的に結果を生ずるであろう。我々は社会的存在として我々の行為の結果に対して責任を負わねばならぬ。行為を単に動機からのみ見て、動機さえ善ければ行為は善であると考える動機説は、主観主義、個人主義であって、行為を本質的に社会的なものと考えないところから生ずる誤謬である。自己の行為を完全に為し能うために知識をもたねばならぬということも、我々の社会的責任として我々に要求されているのである。倫理は「心情の倫理」に止まることなく、「責任の倫理」でなければならぬ。責任の倫理は自己の行為の結果に対して責任を負うことである故に、それは知識を欠くことができないのである。我々は知識によって我々の行為の社会的結果をできるだけ予見して行為しなければならぬ。

責任の倫理は行為の結果を重んずるのであるが、それは単に結果さえ善ければ行為は善いと考えるいわゆる結果説であってはならぬ。結果説には人格的な見方が欠けている。それは自己をも他をも人格として認めないところから却って最も無責任なことともなり得るのである。人格とは或る内面的なものであり、内面性なくして人格はない。結果を考えることを他律的として排斥するカントの倫理学において重んぜられたのは、人格の内面性である。人格は自由なもの、自律的なものであり、かようなものとして人格は真に責任の主体であることができる。我々は我々の行為において社会に対して責任をもっていると共に自己自身に対して責任をもっている。自己の人格を尊重するということは、自己が自己に対して責任をもつということでなければならぬ。倫理は心情の倫理と責任の倫理との統一である。

しかし我々の行為は単に我々自身から起るものでなく、環境から喚び起されるものである。それは単に主観的なものでなくて客観的なものである。環境が我々を喚び起すというのは、それが表現的なものであるからである。環境においてあるものが表現的であるということは、我々が主観的に、例えば感情移入の作用によって、その中へ意味を投入したというが如きことではない。表現的なものの表現する意味は単に心理的なものでなく、超越的なものでなければならぬ。かようなものとしてそれが我々に呼び掛けるということは絶対的な命令の意味をもっている。その呼び掛けに対する答として我々の行為は客観的な意味をもっている。表現的なものに呼び掛けられることによって生ずる我々の行為はそれ自身表現的なものである。しかるに表現作用は形成作用である。我々は我々の行為によって我々の人間を形成してゆくのである。人間は与えられたものでなく形成されるものである。自己形成こそ人間の幸福でなければならぬ。「地の子らの最大の幸福は人格である」、とゲーテはいった。

我々の人格は我々の行為によって形成されてゆくのであるが、それは単なる自己実現というが如きことではない。道徳は自己実現であると考えるいわゆる自己実現説は、一個の内在論にほかならぬ。実現とは自己のうちに含蓄的にあったものが顕現的になるということを意味している。人間には超越的なところがあり、人格というものも人間存在の超越性において成立するのである。また我々は単に自己自身によって自己を作るのではない、我々は環境から作られるのである。その環境はしかし逆に我々の作るものであり、我々は環境を形成してゆくことによって我々自身を形成してゆくのである。

我々の行為は客観的表現から喚び起されるものとして、主体的に見ると、どこまでも無目的であるということができる。己れを空しくするに従って客観は我々に対して真に表現的なものとなるのである。しかし客観的に見ると、我々の行為はつねに限定されたものに向うものとして目的をもっている。我々の行為にはつねに歴史的に限定された目的がある。目的というものは、主体が作為して作ったものではなく、現実そのもののうちに、その客観的表現のうちにあるのである。従ってそれは客観的に認識することのできるものである。我々は現実を科学的に認識することによって、我々の行為の目的を捉えねばならぬ。

それは歴史の必然的な発展の方向のうちに与えられている。しかし歴史は単に客観的なものでなく、また単に客観的なものは目的ということもできないであろう。歴史は我々にとって単に与えられたものでなく、我々がその中にあって、その形成的要素として、我々の作るものである。しかし我々は勝手に歴史を作り得るものでなく、我々の目的は客観的なものでなければならぬ。形成的世界における形成的要素として、我々の行為は本来つねに職能的な意味をもっている。その世界の我々に対する呼び掛けが我々にとっての使命である。職能は使命的なものであり、使命はまた職能に即して歴史的・社会的に限定されたものである。

しかし単に客観的なものは使命とは考えられない。外からの呼び掛けが内からの呼び掛けであり、内からの呼び掛けが外からの呼び掛けであるところに使命はある。真に自己自身に内在的なものが超越的なものによって媒介されたものであり、超越的なものによって媒介されたものが真に自己自身に内在的なものであるというところに、使命は考えられるのである。かような使命に従って行為することは、世界の呼び掛けに応えて世界において形成的に働くことであり、同時に自己形成的に働くことである。それは自己を殺すことによって自己を活かすことであり、自己を活かすことによって環境を活かすことである。人間は使命的存在である。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です