技術の美学の現代建築の中の解釈
人間の創った道具、建築、あるいはスポーツなどというような、人間の技術がつくりあげたものに、私たちがぶっつかった時、美しいなと思うことは、どんな意味をもっているのであろう。
例えば、水泳の時、クロールの練習をするために、写真でフォームの型を何百枚見てもわかりっこないのである。長い練習のうちに、ある日、何か、水に身をまかしたような、楽に浮いているようなこころもちで、力を抜いたこころもちで、泳いでいることに気づくのである。その調子で泳いでいきながら、だんだん楽な快い、すらっとしたこころもちが湧いてきた時、フォームがわかったのである。初めて、グッタリと水に身をまかせたようなこころもち、何ともいえない楽な、楽しいこころもちになった時、それが、美しいこころもち、美感にほかならない。自分の肉体が、一つのあるべき法則、一つの形式、フォーム、型を探りあてたのである。自分のあるべきほんとうの姿にめぐりあったのである。このめぐりあったただ一つの証拠は、それが楽しいということである。しかもそれが、事実、泳いで速いことにもなるのである。無駄な力みや見てくれや小理屈を捨て去って、水と人間が、生でぶっつかって、微妙な、ゆるがすことのできない、法則にまで、探りあてた時に、肉体は、じかに、小理屈ぬきに、その法則のもつ隅々までの数学を、一瞬間で計算しつくして、その法則のもつ構成のすばらしさを、筋肉や血や呼吸でもってはかり、築きあげ、そのもつ調和、ハーモニー、響きあいを、肉体全体で味わうのである。音楽は耳を通して、肉体に伝えるのであるが、この場合は、指さきから足までの全体の動きで、全身が響きあっているのである。これがわかった時、これまでの自分は、他人みたいなものなのである。自分がほんとうの自分にめぐりあうと、そうなってくるのである。
このように考えると、クロールまでが、美学にも関係をもってくるのである。楽しいことは、常に容易ならないものを、その背中に担っているはずである。ボートのフォームなどは、あの八人のスライディングの近代機械のような、艇の構造に、八人の肉体が、融け込んで、しかも、八人が同時に感じる調和、ハーモニー、「いき」があったこころもちが、わかってこないと「型」がわかったとはいえないのである。しかも、それがわかった時は、水の中に融け込んだような、忘れようもない美しいこころもちなのである。よく「水ごころ」とか「ゲフュール」などと、ボートマンがその恍惚とした我を忘れるこころもちを呼んで楽しむのである。それはまた他の人が見ても、近代的な、美しいフォームなのである。この気分が八人の乗りてに一様に流れてくる時、ひとりでにフォームは揃ってき、ゆるがすことのできぬもの、一つの鉄のような、法則にまで、それは高まってくるのである。
ところが、この法則は、自然の法則のように、宇宙の中にあった法則であろうか。これは人間と水との間に、人間の創りだした新たな法則であって、自然の法則ではない。人間がこの宇宙の中に、自然と適応しながら、自分で創造し、発見し、それを固め、そしてさらに発展させていく法則である。これを「技術」というのである。これは大きい意味の技術をさすのではあるが、どんなつまらない技術も、みな、この大宇宙に対決するにたりる、大創造物でないものはない。たとえ、破れ靴のきれっぱしでも、人間の創造物なのである。
例えばこの大東京の一角に立ってみて、見えるかぎりの家、バラック、その中にうごめいているどんな人間の、ぼろぼろの着物だって、持ち物だって、電車だって、自動車だって、長い長い二十万年の人間の歴史が創りあげたものでないものは、一つもないのである。たとえ、どんな謬りを、たがいに犯していても、みな、この謬りをふみしめて、耐えに耐えて、さらに創りあげ、創造しようとしている技術でないものはないのである。
このすべてのくだらないものの中に、美がどうして発見されるのであろう。それは、ちょうど、クロールのフォームを発見した時のように、かつては溺れ、苦しんだ水の中に、すがすがしく泳げたように、そのあたえられたいろいろの条件を、ほんとうに自分たちのものとし、自分たちの法則にまで、たどりついているのではあるまいか。つまりこれらのものの中から私たちが美しいものを発見するということは、その中にそれを探りあてた時の証拠ともいえるのである。
しかし、歴史の永い伝統は、その証拠が、長い長い謬りをふみしめ、あるいは、足をたびたびふみ滑らしながらも、より高く、より高く立ちあがってきていることを示しているのである。こう考えると二十万年という人間の長い長い歴史が、何かいじらしいような気持にさえなってくるのである。この感じが、一口でいえば、ヒューマニズムとでもいうべき感じなのである。
人間が、言葉を発見したということは、手を自由にして、二つの足で立ったよりも、もっと根本的なことであった。このことから、人間は、この宇宙に、秩序があるらしいこと、法則があるらしいことに気づきはじめ、それを確かめたのである。宇宙が何も知らないのに、人間は、宇宙の秩序を、一人一人自分の中にうつしとることができるものとなったのである。生まれて、死ぬるまで、百年に充たない、取るにたらない、はかない存在であるのに、しかも、宇宙の秩序をいささかたりとも、探り求める存在として、みずからを創造したのである。そして、さらに物の中にだけ、法則があるのではなくして、第一に、人間と物との間にも、また第二に、人間と人間の間にも、秩序があるらしいことに気づき、それを、絶えず探し求めているのである。
国家を築きあげる努力と試み、社会の関係、道徳、法律、経済、政治など、みんなこの試みにほかならない。大きくいって、人間の技術は、みんな、このはかない試みなのである。渺たる宇宙に比して、小さな秩序ではあるが、しかし、宇宙のほかのどこにもありえない、創られつつある秩序である。
それが創られたものであるかぎり、自然の星の軌道のように、寸分の狂いも謬りもないものではない。むしろ、常に謬りつつ、その謬りをふみしめることが、真実へのただ一つの道しるべとなるといえるであろう。この謬っては正され、謬っては正されるところの技術の秩序、この中に、人々が、やはり、自然に向って感じたと同じ、美の驚きにめぐりあうことがあるのである。クロールのフォーム、ボートのフォームもそうである。また道具の世界でもそれを飾ろうとしたのではなくて、人間の道具に必要な条件を充たしたのに過ぎないのに、あっという驚きをもって、人々をうち、しかも、人々のこころのありかたを教えさとすことがある。
例えば、刀、ことに日本刀を見る時、その緊まった、寂けさは、人のこころを寒くするほどである。それはただ、その切るという機能が、純粋になりきった時、その秩序は、自然の美しさをしのぐほどのものにまで立ちいたっている。飛行機の美しさ、すべての機械の美しさ、機能美の近代建築もまたそうである。
飾りがないことは、嘘がないことである。率直にその働きに即いているのである。桂の離宮の建築は、日本の美の伝統にあるところの、素直さによって、この美しさに到達しているともいえるのである。しかも、この美しさこそ、日本の美の伝統的な純粋なものともいえるのである。技術の美が、自然の美の、ふところの中に飛び込んで、それと見まごうものとさえなっているところの、素晴らしいものといえるのである。
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