精神的ブランドに頼るビートたけしは“日本のレニー・ブルース”になりそこねた

その昔、ビートたけしが、「オレは、日本のレニー・ブルースになるのだ」と、いくつかのインタビューで答えたことがあります。それは、「赤信号、みんなで渡れば、怖くない」に代表される、ある種のラディカルさを抱えて登場した彼にお似合いな発言でした。

“物を得る充足感”を売る堤清二=辻井喬が“物に頼る寂しさ”を語ることについて

一般的には、堤清二と辻井喬がそれぞれ異なる視点から「物を得る充足感」と「物に頼る寂しさ」について語るということを意味するかもしれません。 堤清二は消費や所有による充足感を重視し、その価値を肯定的に捉えます。彼は物を所有することが個人の満足感

技術の美学の現代建築の中の解釈

人間の創った道具、建築、あるいはスポーツなどというような、人間の技術がつくりあげたものに、私たちがぶっつかった時、美しいなと思うことは、どんな意味をもっているのであろう。 例えば、水泳の時、クロールの練習をするために、写真でフォームの型を何

美学とは何を学ぶ学問であろうか

大体人々は価値のあるものとして、真実であること、善良であること、美しくきれいであることの三つを好み、尊敬し、愛するのではないだろうか。その真実について学ぶのが、哲学、論理学であり、善良であることについて学ぶのが倫理学であり、美しいこととは何

倫理問題とは?倫理学に於ける実質の問題

知識と行為とは単に外面的に結び付くのでなく、内面的に結び付いている。認識する主観そのものが行為的である。この見方は我々を知識の倫理の問題に連れてゆくであろう。 知識の倫理の問題は認識の根柢には意志があるという主張から導かれることができるであ

哲学の現実生活に対する意義はどこにあるのか

行為には目的がなければならぬと考えられている。行為は意志に基いて起り、意志は目的をもっている。そして一般に知識の目的が真理であるように、道徳的行為の目的は善と呼ばれるのである。そこで善とは何かということが道徳の根本問題になってくる。 行為の

経験論哲学と哲学的先験論の間

知識はすべて経験から来るという説は経験論と呼ばれている。経験論の哲学は経験を主観的なもの、心理的なものにしてしまった。経験は主体に関係付けられて経験といわれるのであるが、その主体が心或いは意識と考えられたのである。経験するとは意識に与えられ