ファッドからファッションへ、 新しい時代の空気は皮膚感覚に始まる

ファッド (fad)という言葉があります。所謂《いわゆる》、流行と訳されている、ファッションなる言葉の親類であります。ただし、カタカナを多用した文章に出っくわすと、もう、それだけで、「みずみずしい心が描けていない」などと、いささか感情的拒絶反応を示すことが多い文芸評論家の人でも、今や抵抗なく使えてしまうくらいに、親分格のファッションが一般しちゃっているのに比べると、まだまだ、って単語です。

物好き、気まぐれ、といった意味合いの他《ほか》に、一時的で気まぐれな流行、という意味を持つファッドは、ファッションと呼ぶのには、まだ、早過ぎる現象を捉《とら》える時に、やたらと便利な言葉です。たとえば、「すべての子供が生き生きと出来る、格差のない教育を」と大きな声で叫ぶ人たちが、現在の教育体制を批判する場合に、格好の材料として、しばしば、取り上げることの多かった暴走族とか竹の子族は、ファッションでした。ある種の社会現象にまで成り得たからです。

今では、現代日本に於《お》ける“動くシーラカンス”と呼ばれるまでになってしまった、髪の毛かき上げニュートラ少女にとって、必要条件のひとつだったレイヤード・ヘア。これも、ファッションでありました。けれども、今では、わずかにサーファーの間で崇拝されるだけになってしまったそのレイヤード・ヘアと、しばらくしてから後発組として登場した、手塚理美《てづかさとみ》チックなワンレングスや石原真理子風なロング・ストレートの、ちょうど間に挟《はさ》まれて、それほど市民権を得ることなく終わってしまった、結婚前の夏目雅子がやってたソフト・ソバージュやマリアン風なトニック・ヘア。これらは、ファッドであったと言えるのかもしれません。あるいは、近頃《ちかごろ》、ジュリアン・レノンなんぞがやってる“綺麗《きれい》な長髪”というのも、これまた、ファッドなのかもしれません。

ソフト・ソバージュやトニック・ヘア。これらは、ファッションにまでは広がることのないまま、終わってしまいました。綺麗な長髪。こちらの方は、同じようにファッドのままで終わるかもしれませんし、あるいは、今後、ファッションにまで広がっていくのかもしれません。が、それは、評論家だの学者だの、はたまた、マスコミ人だのとネーミングされたジャンルの人たちはもちろんのこと、実際、長髪をやってる当の本人たちにとっても、わからないことなのです。

確かに、世の中の新しい動きではあります。ただし、それが、ファッションと呼ぶことが出来るほどプリベイリングな代物《しろもの》になるのかどうか。繰り返しますが、誰《だれ》にとっても、正確な予測を立てることは難しすぎます。現象という、目の前で起きている、その対象物に対して、その他大勢の人たちが皮膚感覚によって示す反応の多寡《たか》が、ファッドとファッションの違いを作り出していくのですから。もちろん、ある種の集団が意識的な作業を行うことによって、ファッドからファッションへの広がりを助けようとすることは出来ましょう。けれども、それは、絶対的なものではありません。あくまでも、街中の人たちの皮膚が、決めていくことなのです。

「ってことは、つまり、ファッションとなるものを、他の人々よりも一足先に見極めていくのは、ほとんど不可能だというのかい?」と聞かれてしまいそうです。いや、そのように決めつけることも出来ません。まだ、世の中のごく一部の人々の皮膚でしか感じられていないファッドを、絶えず、観察していくことによって、少なくとも、それが、ファッションとなるかどうかという予測の確度を高めてはいけるからです。ちょうど、高校時代、微積分の練習問題を、何回も繰り返し繰り返し、鉛筆片手に行うことによって、次第に正解を引き出す確率が高まっていったのと同じようにです。

ただし、それは「若者たちの神々」最終回でも述べたように、ムダな時間とお金を必要とします。フィールドワークを絶えず行うことによって、その鋭さを磨《みが》いていかなくてはならないからです。そうして、ファッドとしてこの世の中に登場したものがファッションとなっていくことを、誰よりも早く予測出来たとしても、ただ、それだけのことで、誉《ほ》めてくれる人は、残念ながら、まだ、あまり、日本にはいないみたいです。形而上学《けいじじようがく》的フレイムワークの中で、理論としてのファッドとファッションを説明出来ることの方がずっと優れた作業であるかのように錯覚している人が多いからです。

けれども、もちろん、改めて言うまでもないことですが、ファッドとファッションを見極める際に、前者の作業と後者の作業に優劣の差を付けることは出来ません。むしろ、最近、しばしば、僕《ぼく》が言うように、「アルキメデスも、何日間かお風呂《ふろ》に入らないうちに、体中がかゆくなった。その生理が、彼に偉大な発見をさせたのだ。新しい時代の空気は、常に、そうした皮膚感覚から始まり、理論は後から出来上がってくる」ということを、もう一度、確認してみれば、ファッドとファッションをめぐるフィールドワークが、なるほど、ムダな時間とお金を使いながらも、その実、決して、ムダな作業ではないことが、わかってくるはずです。

ファッドの形容詞であるファディッシュ(faddish)と、フィールドワークという意味を持つ考現学という言葉によってタイトルが作られたこのページは、今まで、不当に軽視されてきた、こうした作業を行っていく連載です。ファッドとして注目した現象が、予測通りにファッションにまで広がっていくかもしれません。それは、僕にとっての大きな喜びです。あるいは逆に、ファッドのままで終わってしまう現象ばかりで、空振りが続いてしまうかもしれません。けれども、それは、次に大きなファッションを生み出すエネルギーとなっていくのです。落胆する必要などありません。考えてみれば、ファッション自体が、不連続の連続として、目まぐるしく変わっていくものなのですから。

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