知識はいかにして成立し、哲学における一つの重要な問題である

哲学真理と科学的知識。知識はいかにして成立し、いかなる性質のものかということは、哲学における一つの重要な問題である。この問題を研究する哲学の部分は認識論と呼ばれている。認識というのは知識というのと同じである。ただ認識論という名称は、他の多くの名称と同様、一定の歴史的含蓄をもっている。認識論は近世においてロックやヒュームに始まり、カントによって確立されたといわれ、現代の新カント派は、認識論と哲学とを同一視し、認識論のほかに哲学はないと主張した。しかしながら特定の立場を離れて考えると、知識の問題はギリシア哲学以来絶えず研究されてきたのである。この問題に関する哲学的考察はまた知識学とも知識哲学とも称せられている。更にそれは論理学の名のもとに論ぜられることがある、思惟の学としての論理学は実質的には認識論でなければならないと考えられるのである。認識論は「知識の起源、本性並びに限界」に関する研究と定義されている。

知識の問題の中心をなすのは真理の問題である。知識とは真なる知識のことであって、偽りの知識は知識ともいわれない。知識は真理であることを要求している。真理は知識の価値を意味し、これに対して虚偽は反価値である。真理と虚偽とは理論的領域における価値と反価値との対立を表わす言葉である。真理とはいかなるものであろうか。

知識は個人的なものでなくて一般に認められるものでなければならぬ。ただ自分はそう考えるというのでは単なる意見であって、知識ではない。自分にとってはそうであるが他の者にとってはそうでないというものは真理とはいい得ない。真理はあらゆる人によって承認さるべき要求を含んでいる。或る時にはそうであるが、他の時にはそうでなく、或る処ではそうであるが他の処ではそうでないというものも真理でなく、真理は時と処を超えて通用するものでなければならぬ。知識はかような性質をもつべきものであって、普遍妥当性といわれるのがそれである。真理とは普遍妥当的な知識にほかならない。普遍妥当性とは、時と処に拘わらない普遍性、またすべての人が必ず承認しなければならぬ必然性を意味している。一般に価値とはかように普遍妥当的なものをいうのである。普遍性と必然性、或いは普遍妥当性は真理の徴表である。

ところで知るということは一つの心理的事実であるが、かようなものとして見ると、知識はつねに普遍性と必然性をもっているとはいわれないであろう。或る者が真理として主張するものも、他の者は承認しないことが多い。真理はしばしば万人に反対して叫ばれるのである。すべての人に承認される真理というものはむしろ存在しないのが普通である。個人としても、昨日まで真理と確信していたものに対して、今日は懐疑的になることがある。一つの知識も、或る人には一層多く必然的と思われ、他の人には一層少く必然的と思われるであろう。かように、心理的事実としては、知識はつねに普遍性と必然性をもっているとはいえない。そこで知識の普遍妥当性は、カントの言葉を借りていうと、事実の問題でなくて権利の問題であると考えられるのである。それは知識が事実として普遍性と必然性をもっているか否かに関わるのでなく、すべての知識は権利として普遍妥当性を要求することをいうのである。真理は、実際は何人も承認しないにしても、あらゆる人によって承認さるべき権利をもっている。真理のこの要求は、事実いかんに拘らず、厳粛である。権利の問題は事実の問題でなくて当為の問題である。それはつねにそうあるという意味でなく、つねにそうあるべきであるという意味である。存在(ある)と当為(べし)とは区別されねばならぬ。価値は普遍的に妥当するものであるが、妥当するということは存在するということと全く違ったことでなければならない。そこに心理主義に反対する新カント派の論理主義の主張がある。心理主義は物を心理的事実の立場から見てゆくに反して、論理主義はそれを論理的意味の立場から見てゆこうとするのである。

いま右のように考えることによって明かにされたのは、形式的真理概念である。真理の形式的概念は普遍妥当性である。いわゆる論理主義は形式主義にほかならぬ。それは知識が形式的にはいかなるものであるべきかを明かにするにしても、実質的にはいかなるものであるかを明かにすることなく、却って知識の問題から存在の問題を駆逐することになるであろう。真理は普遍妥当性であり、これは当為或いは価値を意味し、価値は妥当するものであって存在するものでなく、妥当の領域と存在の領域とは全く別のものであり、知識が普遍妥当性をもつためには、判断において承認もしくは否認される認識の対象は、存在でなくて価値でなければならぬと主張された。しかしながら真理の意味を実質的に規定しようとするとき、存在の概念は欠くことができないであろう。知識は存在に関係付けられたものとして知識である、何等かの存在との関係を含まないような知識はない。そこで伝統的な定義は真理を、物と観念との一致と規定している。カントもこれを認めなかったのでなく、彼もまた、真理は「認識とその対象との一致」であるといっている。認識とその対象或いは存在との一致が認識の客観性或いは対象性を形作る。しかるに他方から考えると、知識が客観的なものでなければならぬということは、それが主観的個人的なものでなく、普遍的必然的なものでなければならぬことを意味している。かようにして、知識の客観性或いは対象性は二重の意味に解されることができる。即ちそれは、一方知識の普遍妥当性を意味すると共に、他方知識が客観或いは存在に関係付けられていることを意味している。そこでもし後の意味を離れて前の意味をのみ強調すれば、形式的な論理主義における如く、存在の概念から抽象して真理の概念を規定することも可能であろう。しかしながら知識の客観性はむしろ言葉通りに知識が客観或いは存在に関係付けられていることと理解されねばならぬ。存在との関係を含まないような知識はあり得ない。知識の客観性は、カントのいった如く、「客観的実在性」のことでなければならぬ、従ってそれは存在に関係付けられているということでなければならぬ。知識が主観的でなく普遍妥当的であるということも、それが客観に関係付けられることによって可能になるであろう。

しかるに客観に関係付けられることによって、知識に客観性或いは普遍妥当性が与えられるためには、客観が超越的なもの、言い換えると、主観から独立なものであることが必要である。対象の超越なしには知識の普遍妥当性はない。このように考えてゆくと、真理の基準は対象にあることになり、進んでは、真理と称すべきものは第一次的には我々の観念でなく存在であり、この存在に関係付けられることによって、我々の観念はむしろ第二次的に真理といわれると考えられるであろう。真理は知識に属するよりも先ず存在に属している。知識が真理であるのも、存在の真理に関係付けられることに依ってである。実際、人々は普通に、真理のもとに知識の真理よりも物の真理を理解している。「真理を知らねばならぬ」というとき、真理とはあるがままの存在、物の自己自身においてある存在を指している。真理とは存在の在り方、それがそのものとして顕わであるという在り方を意味するのである。真理を単に知識に属する性質と考えることは問題の正しい把握を妨げ易いであろう。スコラ哲学者は、物の真理或いは存在における真理と、知性の真理或いは知識における真理とを、区別した。真理を存在の真理というように考えることは、超越的真理概念である。知識における真理は仮に内在的に考えられ得るとしても、存在における真理は超越的に考えられるのほかない。一層正確にいうと、存在は客観として超越的であることによってそのものとして顕わであること即ち真理であることが可能である。かように超越的なものに関係付けられることによって知識の真理も可能になる。真理の問題は超越の問題であり、それは先ず客観或いは対象の超越に関わっている。

真理についての自然的な見方は模写説と呼ばれている。模写説は、観念と存在との一致が真理であると考える。尤も人々の自然的な見方は、真理を必ずしも先ず知識について考えるのでなく、むしろ存在について考え、真理はもと存在のうちにあると見ているのである。模写説に依ると、心の外にある物が心に写され、それが物と一致しているとき真理である。模写説は超越的真理概念をとっている。即ちそれは、意識を超越して独立に存在するものを認め、これとの一致において真理を考えるのである。模写説に対しては、我々がどれほど真面目に我々の表象と物との一致を確かめようとしても、つねにただ表象と表象との一致が知られるのみで、表象と物の一致は決して知られないという非難がある。我々は直接体験の表象と記憶表象或いは想像表象とを比較し、両者を同一の対象に関係させることはできるが、この対象そのものと表象とを比較することはできないといわれている。そこで超越的なものを排して純粋に内在的に考えてゆこうとする内在的真理概念が現われる。それはひとえに表象相互の一致として真理を規定しようとするのである。しかしながら超越的真理概念は極めて執拗なものであって、内在的な見方のうちにも隠されて横たわっている。この場合、二つの表象が相互に一致すべきであるという要求は、両者が共に同一の対象に関係しているということに基礎をもたねばならない。二つの表象が相互に等しいとされるのは、それらが第三の、それ自身は表象ならぬものに等しい故でなければならない。科学において形作られる表象は経験によって得られる表象と一致すべきであるというとき、そこにはその根柢として、両者において同一の実在が精神に現われている筈であるという思想が働いている。かように超越的真理概念は到る処その影をとどめている。真理が内在的なものと考えられぬことは論埋主義者も認めているのであって、彼等が心理主義を排斥するのは実は認識の対象の超越性を主張するためである、その際彼等が認識の概念から存在の概念を駆逐することになったのは、存在を意識に与えられた観念と見る彼等の主観主義的前提の結果であり、かようにして彼等は、認識の対象は存在でなく超越的価値であると考えるに至ったのである。

真理は知識の真理として、存在においてでなく思惟においてあるものとして、一定の構造と性質のものでなければならぬといわれている。すでにアリストテレスは、本来の意味における真及び偽は、結合と分離もしくは肯定と否定に関わり、従って判断にのみ属すると考えた。表象とか直観とかは本来の意味においては真或いは偽と語られないのである。またライプニッツは、真理の本質は主語と述語の連結のうちに横たわり、その結合は主語のうちに述語が含まれることであると論じている。しかるに、真理である言表或いは命題の構造と性質がいかに考えられるにしても、命題の真理は一層根源的な真理即ち存在的真理に根柢をもたねばならぬ。真理はただ判断に属するというのでなく、却って判断が存在と一致する限りにおいて判断に属するのである。我々が汝は色が白いと語ることが真である故に、汝は色が白いのでなく、却って汝は色が白い故に、かく語ることによって我々は真を語るのである、とアリストテレスもいっている。真理とは存在がそのものとして顕わであることである。しかるに存在がそのものとして顕わであるためには、存在は超越的でなければならぬ、言い換えると、私から独立であること、私に対して距離の関係に立っていることが必要である。客観の超越なしには真理は考えられない。

しかるにさきに述べた如く、客観の超越は主体の超越によって可能になるのである。物が客観として超越的であるのは、我々自身が主体として超越的であるためである。我々における主体への超越が同時に我々に対する客体の超越である。物が客観として超越的であるのでなければ、我々は物を客観的に認識することができず、我々が主体として超越的であるのでなければ、物は客観として超越的であることができない。主体は内において自己が自己を超えることによって真の主体となる。超越は人間の作用のうちの一つの作用に過ぎぬという如きものでなく、却ってそれによって他の一切の作用が、従って認識の作用もまた、可能になるところのものである。超越は主体の本質であり、主観性の根本構造である。主体というものが先ずあって、それが他の作用と並んで一つの作用として超越をもなすというのでなく、そもそも主体であるということが超越においてあることである。人間存在の超越性によって、一切の存在するものをそのものとして顕わにすること即ち真理が可能になる。物から遠くあることによって物に真に近づくことができる。認識主観はかように超越的な主体でなければならぬ。知識は客観性をもたねばならぬ故に、主観は単に個人的なものであることができない。そこでカントは認識主観を意識一般と考えた。意識一般というのは超個人的な主観、超個人的な我のことである。それはひとつの抽象物に過ぎず、現実の我、現実の主観ではないといわれるであろう。そこで意識一般は当為であるとか規範であるとかと答えられる。けれども主観という以上、それは働くものでなければならぬ、働くものは現実的なものでなければならぬ。現実の人間は超越的なものとして、内において自己が自己を超えるということがあり、超個人的といわれるような意味をもつことができる。主体の超越において認識主観としての意識一般も考えられるのである。かようにして根源的には主体の超越によって初めて存在はそのものとして顕わになるとすれば、真理は本来知識の真理を意味するということもできるであろう。

物を知るためには我々は誠実でなければならず、さもないと真理は知られない。誠実とは己れを空しくすることであり、それによって存在はそのものとして我々にとって顕わになる。己れを空しくするとは内において自己が自己を超えることであり、それによって自己は却って真の自己となる。誠実或いは真実は物のまことに対して人間のまことのことである。人間のまことは物のまことを知るための条件である。しかるに人間のまことは、まこととして、それ自身において積極的にひとつの真理概念を現わしている。それは主体が自己を隠すことなく顕わであることであって、客観的真理に対する主体的真理を意味している。客観的存在の真理があるのみでなく、主体的存在の真理がある。主体は単に客観的に知られ得るものでなく、主体的自覚によって知られるのであるが、その真理は客観的真理とは区別されねばならぬであろう。真理を単に客観性と同じに考えることは正しくない。客観的真理と主体的真理とは、その対象においても、その認識の仕方においても、異っている。ハイデッゲルの語を借りて、前者を存在的真理、後者を存在論的真理と称することもできるであろう。自覚は超越によって可能になるのであるから、主体的真理も超越を根拠としている。純粋に内在的な真理というものはなく、外に一致すべきもののない知識も内において超越的なものとの関係を含むのでなければならぬ。対象的認識でなく場所的自覚である哲学の真理はそこから考えられるのである。客観的真理が世界についての真理の問題であるに反して、主体的真理は世界における真理の問題である。

真理は超越的なものであるといっても、ただ客観的にあるものではない。我々から単に独立であって我々に決して関係付けられることのないものは、存在といわれるのみで、真理とはいわれないであろう。真理はもと存在に属すると考えられるとしても、この存在が我々の主観に関係してくるところに真理といわれる意味がある。真理は単に自体における存在でなく、自体における存在が我々にとっての存在となるところに真理の意味があるのである。主体の作用によって存在はそのものとして顕わになるのであって、主体の超越はその根柢的な条件である。そこで真理とは本来知識の真理をいい、存在の真理は知識の真理に従って比論的に名付けられるに過ぎないと考えることができる。知識は主体と客体との関係のうちにあって、その関係から真理は真理になるともいわれるであろう。存在における真理というものはいわば即自態における真理に過ぎず、それが知識における真理となることによって対自態における真理となり、その知識に従って主体が行為することによって真理は再び存在における真理となり、即自対自態における真理となる。世界についての真理は主体を通じて世界における真理となり、それによって現実的に真理となる。真理は究極は世界における真理の問題として主体に関係しており、真理が何よりも知識の真理を意味すると考えられるのも、根源的にはそれに基いている。真理は働くもの、人間を変化し、存在を変化するものでなければならぬ。「生産的なもの、それのみが真理である」、とゲーテはいった。客観的真理は主体的真理に関係付けられることによって、その根拠もその意味も明かにされる。人間のまことによって物のまことは顕わになり、物のまことに従って働くことが人間のまことである。真理は単に知識の問題でなく、同時に倫理の問題である。真理は我々を喚び起すものとして表現的なものでなければならぬ。やがて我々が知識は主観的・客観的に形成されるものであるといおうとするのも、根本においてはそのためである。

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